更新情報
2009.7月1日 |
ちょっと手を入れました。
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2009.03.11 |
ホームページを一新しました。
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20世紀は戦争と革命の時代、21世紀は科学の時代。迷妄はこうして続いていく。
『一連続』なありようの中に連続性を切断する切れ目を入れてしまう。ものごとは《それぞれ別々》であり、『一連続』なありようなのである。ところが、学問は、この『一連続』にありようの中に、その連続性を切断する切れ目を入れてしまう。すると、複数 ( 大抵の場合は二つ ) の断片ができあがる。こうしてからようやく、学問は、これら断片同士の間柄を問い始めるのである。ところが、それらは互いに不連続なものと化してしまっている。無関係になっているのだ。だから、それらの関係を解き明かそうとしてもそれは不可能なのである。 「意識」と「世界」の関係こんな例として次のようなものが挙げられる。「意識」と「世界」の関係。これは私の体験という『一連続』なありようを、「感覚するもの ( 意識 )」と「感覚されているもの ( 世界 )」とに切断してしまった過ちである。意識と世界は、学問の間違った操作によって、互いに不連続となった。その後で、それらの間柄を問うても、まともな答えはでてこない。例えば、デカルト、ジョン・ロック、ヒューム、バークリ、カント、フッサール、サルトル、彼らが意識についてどう考えたか見てみればいい。 ゼノンの矢は象徴的また、嘘みたいな例も挙げることができる。 それは、ゼノンの矢、である。私の体験は、時間順序的に『一連続』なありようである。その時間的連続性をゼノンは切断してしまった。だから、今、飛んでいる最中である矢を見て、彼はそれを「止まっている ( 静止している )」と考えてしまったのである。このゼノンの矢は、実は深刻な錯誤である。 |
心身問題また、心身問題も『一連続』なありように連続性を切断する切れ目を入れてしまった過ちの一つである。しかも、この心身問題は重要である。というのも、そんな間違った問題を間違ったふうに解決する者が、医科学者であるからだ。彼らは、人の身体の中に手を入れる。薬を入れる者たちである。人を誤ったふうに解釈していると、大変な過ちを犯してしまうだろう。そして、実際、今まで、犯してきたのである。 「原因が結果を生じさせる」と間違って信じてしまうことものごとを『一連続』なありようと捉えることが学問ではできない。だから、医科学は「原因」でものごとを解釈する。例えば、悪しき「結果」を生じさせる「原因」なるものを特定しようとする。そして、この「原因」を取り除こうとするのだ。臓器丸ごと摘出してまで、である。問題解決とは「原因」部分を取り除くことだと勘違いしている始末なのだ。問題解決法だけではない。彼らは、問題が何であるか、それも捉え損ねる。 本当の問題は具合が悪いこと問題は具合が悪いことである。つまり、『今どうしようとするか』ヨリはっきりしていないこと、だ。なのに、医科学は問題は〈異常〉ということだと思いこんでいる。人間を研究すると言って、〈正常〉とか〈異常〉なるものを捏造している。そんなものはないというのに。けれども、彼らは、〈正常〉や〈異常〉を次々こしらえあげる。それらを「原因」で説明する。だからどうしても、目的論をすることになる。人間を機械のように説明してしまうことになる。それは、人間だけでなく、機械をも間違って解釈してしまう仕方である。 |
生きるということ人は、『今どうしようとするか』どのようにどれだけはっきりしているか、と捉えることができる。言ってみれば、生きるとは、『今どうしようとするか』という問いを解くことなのである。この問いをどう解くか。その解き方が意思である。そう解くことで、どれだけこの問いが解決するか。その程度が、具合なのである。 医科学では生きるということが理解できない医科学は、意思も具合も捉えれない。脳科学は、研究の第一段階で、そのことを告白している。遺伝学 ( 分子生物学など )もそうである。それらは生きる、ということが捉えられないのである。 人間機械論という目的論このように人間を機械と捉える間違いは、たいした間違いではないように思われるかもしれない。だが、精神医学などという分野が医科学にはある。それは人間を〈正常〉と〈異常〉に分ける。そして、〈異常〉を機械の故障として「原因」で解釈する。根本的な人間への不理解があるだけではない。人間を違う物として人に説明するものである。しかし、生きる、ということが捉えれない学問で、人を解釈する。そんなことをしていて良いわけがないだろう。 | ||||||||
理論一覧 ( 抄 )
- 理論の一部を以下、簡単に掲載する。詳しい説明を読むには、「参照」をクリックしてください。ブログエントリやメルマガ・バックナンバーが開きます。
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生きるとは、『今どうしようとするか』という問いを常に解くようなものである。この問いをどう解くか。その解き方が、意思である。一方、そのように解くことで、この問いがどれだけ解決しているか。その程度が具合なのである。人を、『今どうしようとするか』どれだけどんなふうにはっきりしているか、と捉える。そうすることで、人の意思と具合を把握することができるだろう。 ものごとは《それぞれ別々》であり、『一連続』なありようである。「原因が結果を生じさせる」のではない。 「原因」の特定法には不備がある。従来の「原因」特定法は、或る種の信仰に則らないとできない。その信仰とは、複数の同じ「結果」は同じ「原因」からしか生じないとする勝手な決めつけである。 実験で「原因」を特定する方法が、遺伝学 ( 分子生物学など ) で流行っている。それを医科学的「原因」特定法と僕は呼ぶ。これにも致命的な不備がある。やはり「原因」を特定することはできない。 「原因」は絶対に特定できない。『一連続』なありようの中に、〈他の部分のありようを生じさせる部分〉と〈他の部分にありようを生じさせられる部分〉の境界など見出すことはできないのである。 問題は具合が悪いこと。『今どうしようとするか』ヨリはっきりしていないことである。だから問題解決は、具合良くなること。『今どうしようとするか』ヨリはっきりしているようになること、だと言える。医科学は、しかし、具合の悪さを問題として捉え得ない。それは、〈異常〉つまり少数派が少数派であることを問題とする始末なのである。その分かり良い例は精神医学 ( 心理学も含める ) である。認知症とか言っている。けれども、そう診断される人たちの具合の悪さには全く配慮していない。人と違う点ばかり診ている。 「原因」も「結果」も、共に「結果」の一部分にすぎないのである。遺伝子が親と子を類似させるのではない。親と子は、顔が似ている。声が似いてる。仕草が似ている。そのように、遺伝子と呼ばれる部分も似ている。遺伝子まで似ている、のだ。 同じとは「互いに隅から隅まで酷似している」ことではない。違うもの同士を、それらの間の違いという違いを丸々含めて『足し算』することなのである。同じものの間には違いが元々あるのだ。 |
あの個がある。この個がある。その個がある。それらが似ている。だから、同じとする。『個が先、( 同じとする ) 分類はその後』なのだ。同じものの間には違いがある。だからこう言い換えられる。『多様性 ( のある個 ) が先、( 同じと分類して見出す ) 共通性はその後』であると。多様性は初めにありき。ところが、進化論などを人は未だに信奉している。共通性が初めにありきと妄信している。だから、ダーウィンはあんなものを思い付かないといけなくなったのだ。多様性を、最初にある共通性から説明しないといけなかったのだ。 未だ、「ゼノンの矢 ( 飛ぶ矢は止まっているetc... )」はまともに解かれていない。飛んでいる矢の或る種間のありようは、『飛んでいる最中』である。こんなことは誰だって分かっているはずだ。ところが、学問的センスの持ち主は、そのありようを「止まっている ( 静止している )」と考えることをやめられない。、せいぜい、全体は部分の総和では「ない」と言う位である。そう言って、説明できない自分を慰めるのだ。しかし、全体は部分の総和なので「ある」。 原因が結果を生じさせる」と間違って信じる。すると、更にこう致命的にも誤解することになる。問題解決法は「原因」部分を取り除くこと。出来事は全て、それを生じさせた「原因」の"せい"である、と。しかし、責任とはそういうものではないのである。しようとしないことをしようとしない。しようとすべきことをしようとする。それが責任である。生きるとは、『今どうしようとするか』という問いを常に解くことである。その問いをどう解いているもいいというのではない。解き方に制約がある。それが責任なのである。責任を果たす仕方で、この問いを解く。その限りで、どれだけこの問いを解決できるか。それが生きることの課題だ。 「原因」でものごとを説明しようとする。そういう人たちは、「原因」部分を取り除くことが、問題解決法だと妄信している。しかし、「原因」部分を取り除くために臓器丸ごと摘出するようなことは、問題解決法として荒唐無稽なのである。 脳科学や遺伝学 ( 分子生物学など ) が大流行している。ここでは脳科学について一言触れよう。これはなんと気持ちの悪い、人間機械論だろう! しかし、大脳生理学者の伊藤正男は、当初から、脳科学では意思と具合が捉えられそうにないと言っている ( そんなことでは生きる、ということが捉えられるわけがあるまいに)。そう言っている外人 ( チャルマース ) の言葉を告白しているわけなのだ。 心身問題なるものがある。それの答えはこちら。僕の体験という『一連続』なありよう。その中に、他人の身体の物的なありようがある。またそれとは別に、彼のしている体験がある。それら二つは、この『一連続』なありようの中の二部分なのである。 「原因が結果を生じさせる」。そう間違って信じていると、生きる、ということが捉えられない。人間を機械だと誤解してしまう。目的論で人を解説してしまうのである。 | |||||
